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ラセミ化の際に一時的に左右が入れ替わる分子

アミノ酸など我々の生命現象において重要な分子の多くは,鏡に映したものと重ならない右手型・左手型の構造(キラリティー)を持っており,それぞれが別の働きをすることがあります。 このうち一方を取り出すことができる分子もあり,それらは,医薬品などとして我々の身近な場面でも重要な役割を果たしています。 その一方で,右手型や左手型のうち一方を取り出したときに,徐々に右手型と左手型の50%ずつの平衡混合物「ラセミ体」に戻るものもあり,この現象は「ラセミ化」と呼ばれます(図1)。 このとき,例えば右手型から「ラセミ体」に戻る場合,通常は右手型の割合が100%から単調に減っていき50%になります。 この過程では,途中で左手型の割合が50%を超えることはありません。 つまり,右手型から出発した場合に左手型が過剰な状態を作ることはできません。

図1 キラルな化合物のラセミ化。 この図では右手型のみを取り出したときに,ラセミ体(右手型と左手型が50%ずつある状態)になる様子を示してある。

その一方で,分子の世界から離れて我々の周囲を見渡すと,「振り子」のように,平衡位置から手前にずらして手を放したときに平衡位置を超えて反対側に到達し,その後平衡位置に落ち着くような動きをする例が多く見つかります(図2)。 先に述べた右手型と左手型の分子の世界で同様の「行き過ぎてから平衡位置に落ち着く」ような変化を起こすことができれば,右手型を一時的に左手型の分子に変えられることになります。 すなわち,振り子の場合に手前に引いて手を放すことで手の届かない向こう側にも物体を届けられるように,一見して右手型だけではできないはずの左手型の働きを,右手型からのラセミ化の過程で一時的に実現できることになります。

図2 振り子の運動の様子。 手を放した後,まず平衡位置を通り過ぎ,その後最終的に平衡位置に落ち着く。

分子内にコバルト原子を導入したらせん構造のカゴ型分子である「コバルト三核メタロクリプタンド」は,このような興味深い時間変化を示すことが分かりました(図3)。 このメタロクリプタンド分子のコバルト上には合計6つのアミン分子を導入でき,この6分子はゆっくりとした反応により別のアミン分子に交換することができます。 この研究では,このアミン分子として右手型に偏らせるアミンAを6つ導入しています。 このアミンAはキラリティーを持つ分子であり,これをメタロクリプタンド分子に導入すると右手型と左手型が完全には鏡写しの関係ではなくなりますので,右手型と左手型の安定性に差が生じます。 その原理に基づいて,平衡混合物の比率を,ほとんどが右手型となるように偏らせることができます。

図3 本研究で用いたコバルト三核メタロクリプタンドの分子構造。らせん型構造となっており,3つのコバルト上に計6分子のアミンを結合させることができる。アミンAが結合すると,右手型が左手型より安定となり,右手型が過剰な状態となる。

このアミンAを取り除く試薬として,別のアミンPを加えると,徐々に「ラセミ体」に戻っていきますが,途中で左手型が過剰な状態を通ってから,右手型と左手型が50%ずつの混合物「ラセミ体」となることが分かりました(図4,5)。 この過程を各種スペクトルにより調べたところ,6つのアミンAのうち4つがPに置換されたときに左手型が増加して左手型が過剰な状態となることが明らかとなりました。 また,このときの変換は,同じコバルトに結合した2つのアミンAが2つずつほぼ同じタイミングでPに置き換わる経路を通って進行していることが分かりました。

図4 本研究のメタロクリプタンドがラセミ化する際に左右が入れ替わる様子。 最初は右手型であるが,6分子導入されていたアミンAが4つ取り除かれた状態で左手型となり,その後ラセミ体(右手型と左手型が50%ずつの状態)になる。
図5 本研究のメタロクリプタンドがラセミ化する過程において,右手型と左手型の比率が変化する様子。 最初は右手型が過剰であるが,途中で左手型が過剰となり,その後ラセミ体(右手型と左手型が50%ずつの状態)になる。

逆に,このメタロクリプタンド分子にアミンPが結合した状態では右手型と左手型が同じ量存在する「ラセミ体」となっていますが,これにアミンAを6つ導入すると最終的には右手型が過剰な状態へと変化していきます。 この過程についても同様に,ラセミ体から一時的に左手型が過剰となり,その後反転して右手型に変化するのかを調べてみました。 その結果,予想に反して途中で反転する現象は見られず,常に右手型が過剰な状態となっていました。 このときのPからAへの変換は,2つずつではなくランダムに置き換わる経路を通って進行していることが分かりました。

したがって,アミンAからPへの交換によって右手型をラセミ化させるときには,一時的に左手型が過剰となりますが,このラセミ体のアミンPをAに交換して右手型に偏らせる場合には左手型が過剰な状態は経由しません。 このように,行きと帰りで経路が異なるサイクルを示す現象を「ヒステリシス」(履歴現象)と呼び,直前の状態に応じて,異なる状態が現れるという特徴を持ちます。

一般に,多くの化学反応の時間変化は,指数関数的な変化(はじめは速く,徐々に一定値に近づいていく)として表されますが,本研究のアミンAからPへの変換では一旦行き過ぎてから一定値に近づいていく特異な時間変化を示しました。 このように最終の到達点を一旦過ぎてから最終の平衡位置に落ち着く現象は,振り子などの物理現象でよく見られる「減衰振動」や制御工学における「オーバーシュート」に似ています。 化学反応においては,このような特異な時間変化は,ベロウソフ・ジャボチンスキーの振動反応やヨウ素時計反応など無機イオンの自己触媒反応や超分子ポリマーの形成・変換過程など,複数の分子が複雑に作用した場合にのみ観測されてきました。 本研究では,このような複雑な相互作用に頼らず,らせん型分子というシンプルな1分子のプラットフォーム上で,右手型から一時的に左手型に入れ替わる特異な時間変化を実現できました。 本研究成果は,時間とともに働きが変わる分子の開発において先駆的で重要な指針となり,時間に応じて透明度や色などの性質や働きが変わる新素材の部品として活用されることが期待されます。 また,よりシンプルな分子骨格で特異な時間変化を起こすことが可能となりますので,これを生かした新しい反応の開発が進むことが見込まれます。


[Reference]
“Transient chirality inversion during racemization of a helical cobalt(III) complex” Sakata, Y.; Chiba, S.; Akine, S. Proc. Natl. Acad. Sci. USA 2022, 119, e2113237119
doi:10.1073/pnas.2113237119